
「朝鮮通信使」とは
「通信」とは現代用語の「連絡」「伝達」の意味ではなく、「よしみを通わす」つまり友好のための使節という意味があるという。
豊臣秀吉は、二度にわたり朝鮮半島を侵略したが、大陸進出の夢破れて敗退した。
ところが徳川家康の朝鮮半島政策は、和平の道を求め、ついに朝鮮国王の国書を携えた「通信使」が来日することとなり、
己酉(きゆう)条約(約定)をむすび、友好を深めた。
通信使一行は正使、副使、従事官の三使以下400〜500名で構成され、随員の中には、学者、文人、書家、画家などが
多数選ばれており、まさに大文化使節団であった。
通信使は徳川幕府260年の間に12回日本を訪れた。
徳川幕府は、六十余州をあげてこれを歓待し、諸大名は当時の進んだ大陸文化を吸収しようとし、民衆はそれまで見たこともない
異国の服装や、にぎにぎしく奏でられる笛や太鼓の音を耳にしようと沿道にあふれた。
武力でもって交通、貿易を求めた秀吉の時代と異なり、文化交流によって築き挙げようとした徳川幕府の姿勢は評価できる。
その交流の姿勢について対馬藩の外交官雨森芳州は、「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わるべきだ」という
「誠信の交隣」を説いて交流の手本をしめした。明治以降、征韓論、朝鮮併合など不幸な時代があったが
誠信の交わりを思いおこし、縁地が手を携え友好を促進しようと立ちあがり、徐々に交流の輪を広げている団体がある。
それが朝鮮通信使縁地連絡協議会である。
韓日国交正常化40周年の今年、韓日文化交流行事が盛大に行われていて、今回朝鮮通信使韓日縁故地域代表者会議が、
釜山で開催されるに併せて、通信使行列再現も行われた。(一部、縁地連文書引用)
江戸時代、朝鮮通信使が十二回も日本に来て友好親善の交流をしています。
この通信使一行は、瀬戸内を通り、京から陸路をとって江戸へ入ったといいます。
上関町も大事な寄港地で、徳川幕府の命をうけ毛利藩が総力を挙げて接待したという記録が残されています。
(写真は、熊毛南高上関分校グランドにて)
御茶屋史跡の楠の大木


毛利藩御番所


通信使ゆかりの石碑:後方上関海峡
2005年9月9日釜山(プサン) コモドホテル 中武ホール。
朝鮮通信使 韓日 縁故都市 代表者会議が盛大に行われました。
この代表者会議は、通信使ゆかりの日本各地の
代表者と韓国の関係者多数で、これからを語り、誠信交隣を確認した有意義な会議でした。




太平舞

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韓国の国花、ムクゲ。いたる所に咲いていました。
日韓親善友好促進を民間主導でという課題。
官から民へではなく学(学問)から民への大きなうねりです。
朝鮮通信使を研究していくうちに、浮かび上がった縁地。
対馬、下関、上関、蒲刈、福山の鞆、牛窓・・・京都、大垣・・・・、江戸、日光と点々と結ばれています。
友好の歴史を思い起こしたいという、韓国の強い想いを感じました。
10日、海神祭という、通信使任命を神に伝え、航路平安を祷っていました。
(釜山市東区 永嘉台)


まず、韓国国歌が演奏されました。









白布を海に見立てて、進む海神の霊。
祭壇前から、静かに進むと、白布が二つに切れて・・・・
どこまでも〜〜どこまでも〜と
朝鮮通信使(第3報)
行列再現の出発式風景
(龍頭山公園にて)
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龍頭山公園での出発式のあと、光復路で朝鮮通信使行列再現が華やかに賑やかおこなわれました。









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朝鮮通信使縁故地交流の夕べが、9月10日龍頭山公園特設舞台で開演され、圧倒されました。



























釜山タワー